ここ数日で気づいたことがあるので書いてみる。
ここ数年「ありのままの自分でどこまでクリエイトできるか?」にチャレンジしてきた。
日常の練習風景をSNSで晒して、誰にも媚びずに群れずに。
ひたすらつきすすんだ。(※ソロ演奏会の開催やCD発売って意味ね)
おかげで演奏の純度は上がったと思う。
【おしらせ】演奏会開きます♪
ここ数年「ありのままの自分でどこまでクリエイトできるか?」にチャレンジしてきた。日常の練習風景も晒して、誰にも媚びずに群れずに。ひたすらつきすすんだ。おかげで演奏の純度は上がったと思う。おはようございます😃 pic.twitter.com/vI8peElRv8
— 内藤優花音@ピアニスト (@yukane_naito) 2019年11月17日
そんなとき、ふと思った。
「ありのままの自分」って一体どんな自分なんだろう??
「ありのままの自分」って「飾らない自分」って考えていた。
あえて気さくで「飾らない自分」を演出してきた。
”クラシックのピアニスト”というと「オカタイ」イメージを払拭するため、あえてそういう自分を演出してきた。
SNSでの動画も、あえて「きれいに映るアングル」を追求しなかった。
普段着・・・もっというと部屋着で普段の練習風景をそのまま晒していた。
でも、果たしてそれが「ありのままの私」なんだろうか?
なんだか違和感を感じた。
もちろんいつもお化粧しているわけでもないし、着飾ってばかりいるわけでもない。
でも、お化粧することもあるし、着飾ることもあるわけだ。
どっちも「ありのままの私」なんだよね。
更に思った。
「ありのままでいよう」ってのもある意味執着だよね。
「(普段の)飾らぬ自分」もいいけど「ちょっと違う自分」を演出してもいいよね・・・そんなふうにも思った。
「(普段の)飾らぬ自分」にこだわりすぎていたな・・・と。
「ありのままでいよう」ってのもある意味執着🌈「普段の飾らぬ自分」もいいけど「ちょっと違う自分」を演出してもいいよね🌟「普段の飾らぬ自分」にこだわりすぎていたかも🌛 pic.twitter.com/QL2lqlBkTM
— 内藤優花音@ピアニスト (@yukane_naito) 2019年11月18日
なんで「(普段の)飾らぬ自分」にこだわっていたかというと、根底には照れくささがあったからだと思う。
きれいに見せるということが、照れくさかった。
きれいに見られたい気持ちもあるのに。
演奏会ではもちろんキレイな自分を演出するよう心がけているけどさ。
SNSでの日常の練習を見せるときも、自然にキレイに見えるように心がけてもいいかな。。。なんて思った。
あえて「飾らないように」演出するのも作為だよね。
だからといって、すごく凝った動画を録るかはまだ決めてないけどね笑。
そんなふうに思ったら気が楽になった。
「飾らない自分」から開放された瞬間だ。
英雄ポロネーズの練習動画を貼っとくから聴いてみてね!
次回リサイタル
2020年2月15日(土)19時から
JR東日本 国分寺駅直結 リオンホール
「死と再生 〜自分の枠組みをぶっ壊せ!〜(仮)」
いよいよ18回目٩( 'ω' )و
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